あさくらの歴史

あさくらの歴史

倉地域にいつごろから人々が定住を始めたのかは定かではありませんが、各地域での埋蔵文化財発掘調査の成果によれば、旧石器時代の終わりくらいまでには郷土朝倉に人々が暮らしていた痕跡が確認されています。但し、旧石器時代の遺跡からは、遺物(石器等の生活に伴う用具)は見つかっていますが、生活の跡が確認される遺構は確認されていません。明確に人々が暮らしたであろう生活痕が確認されるのは、旧石器時代に続く縄文時代になってからです。


紀元前10000年前に始まったとされ、弥生時代の訪れを迎える紀元前約500年前までのおよそ10000年の間を縄文時代と呼びます。この縄文時代の中を便宜上、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期と6時期に分類しています。朝倉地域において草創期の遺跡は確認されていませんが、前期から晩期にかけていくつかの遺跡の広がりを確認することができます。このことは、縄文時代に入り人口が増え、集落が点在したものと考えられます。特に、縄文時代晩期に営まれたと思われる遺跡の数が増えてくることから、この時期に人口が急激に増加したものと思われます。また、出土する遺物も種類が増え、遺構も住居跡だけではなく、埋甕や、支石墓等のお墓等も確認されています。さらに、他の地域から持ち込まれたと思われる土器が確認される事から、地域外との交流が盛んであった事が確認されます。特に支石墓の存在は、朝鮮半島との交流が指摘されています。

稲作が開始され、前方後円墳が作られ始めるまでのおおよそ700年間を弥生時代と呼びます。この時期の朝倉地方は、縄文時代よりもさらに多くの遺跡が確認されています。全ての時期に亘って集落が形成される他、甕棺墓や周溝墓に代表される墓地群が形成されます。さらには、お祀りをするための祭祀遺構なども確認されています。遺物についても、生活に使用されたと思われる土器の他、お祀りに使用されたと思われる土器を赤く塗った丹塗り土器やミニチュア土器、管玉や勾玉、貝輪等の装身具、剣や鉾、戈、鏡等の青銅製品、それを作成した鋳型等が確認されています。特に、筑前町の栗田遺跡や朝倉市の栗山遺跡からは祭祀を行ったと思われる丹塗研磨土器が出土し、弥生時代のお祀りを知るうえで貴重な遺跡として知られています。

この時期になると、朝鮮半島や、中国大陸との交流が盛んになり、様々な半島や大陸系の文化が流入します。代表的なものは稲作ですが、土器等にも半島からの影響がうかがえます。

生時代は、集落が発展し、ムラやクニが形成され首長が出現します。それに伴いムラやクニ同士で争いが行われるようになります。中国の史書「後漢書 東夷伝」では「倭国大乱」として記載されています。各ムラやクニでは、集落の周りに堀を巡らして守りを固め、戦いに備えている様子がうかがえます。この環濠集落の代表として朝倉市の「平塚川添遺跡」があります。この遺跡は同時期に存在したと思われる、「邪馬台国」との関係も注目されています。

墳時代になると、各地で古墳が築かれるようになります。古墳の種類は、弥生時代から継続されて築かれる方形周溝墓や、新たな形態である前方後円墳、円墳や方墳があります。朝倉地域でも多くの古墳が築かれています。
前方後円墳では、朝倉市宮野「宮地嶽古墳」朝倉市小隈の「神蔵古墳(現在消滅)」朝倉市小田「茶臼塚古墳」朝倉市堤「堤当正寺古墳」朝倉市菩提寺「鬼の枕古墳(一部消失)」筑前町下高場「小隈1号墳」があります。前方後円墳は地域を収めた首長の墓と考えられ、畿内の大和王権との結びつきが深い関係にあった事が想定されます。筑前町四三嶋にある「焼峠古墳」は全国でも珍しい前方後方墳として注目されています。また、筑後川流域にある古墳の特色として、墳丘内を絵や模様で飾る装飾古墳があります。朝倉地域でも、朝倉市宮野「湯隈古墳」朝倉市入地「狐塚古墳」筑前町栗田「仙道古墳」が所在し、古代人の思想を知るうえで貴重な資料となっています。この時代になると渡来人の集落が営まれたり、渡来系の技術を用いた須恵器窯が築かれたりと、一層大陸や朝鮮半島との交流が盛んになります。

鳥時代には、朝鮮半島にあった百済を救援するために、斉明天皇が自ら軍隊を率い九州までやってきます。その拠点が「朝倉宮」だと言われています。場所については諸説あり、いずれも決め手に欠ける状況ではありますが、朝倉地域には「朝倉宮」に関連した伝承がいくつか残っており、その候補地の一つとして、知られています。斉明天皇をモデルにしたとされる神功皇后の伝説が朝倉地域に多く残っている事は何か関連めいて興味が惹かれます。

朝倉市杷木林田地区に所在する「杷木神籠石」は同時期に築かれたとされる古代山城で、「朝倉宮」を守るため、もしくは畿内へのルートを防御するためのものではないかと考えられています。

良時代になると朝倉地域は律令制度に組み込まれ、筑前国の中の「上都安佐久良」「下都安佐久良」「安」の3つの郡に分けられました。朝倉宮を除けば、アサクラという名の初見になります。その後、「好字二字令」により上座郡・下座郡・夜須郡と名前が変わります。各郡には郡役所が設けられます。朝倉市宮野「井出野遺跡」は上座郡の郡役所跡ではないかと考えられています。また、各地に条里制による区割りが行われています。

安時代になると、中央で仏教文化が花開いた影響を受け、当地でも寺院が築かれたり、経塚が作られたりするようになります。朝倉市杷木志波の「普門院」や朝倉市八坂の南淋寺はこの頃の創建であると伝えられています。また、彦山の域内に組み込まれ、東峰村の岩屋や朝倉市黒川は山伏の行場となりました。以降彦山は勢力を拡大していきます。

倉時代になると秋月氏が台頭してきます。戦功を挙げた原田種雄が恩賞として秋月の庄を手に入れると姓を秋月に変え、秋月を本拠地として地盤を築いていきます。戦いに功を挙げ勢力を拡大するものの、周辺の勢力争いに翻弄され、強固な基盤を手に入れるのは秋月種実の時代になってからです。種実は、薩摩の島津と同盟し、豊後の大友が弱体化したことにもより、筑前国内に基盤を得る事に成功します。また、豊前国や筑後国の一部も領有し、領地は36万石とも言われる最盛期を現出します。しかし、豊臣秀吉の九州征伐に伴う戦の結果、秀吉に敗れた秋月種実は、日向高鍋3万石に領地替えされ、朝倉地域における秋月氏の歴史は、300有余年を数え歴史を閉じます。秋月氏が大友氏との戦いに備えた山城が、朝倉地域には多く残っています。

この時期には、彦山座主の館が朝倉市黒川に築かれます。黒川は、彦山に関連した宗教都市として、黒田氏に破却されるまでの300年弱15代の間存続していたと伝えられます。
また、甘木町もこの頃に形成され、安長寺の門前町として栄えました。後に甘木千軒・秋月千軒と言われた賑わいを見せることになります。

秀吉の九州征伐とそれに伴う九州仕置きの結果、筑前国には小早川氏が入国します。その後、関ヶ原の戦功により、黒田氏が52万石で入国します。朝倉地域には、栗山利安が15,000石で上座郡に、黒田一成が12000石で下座郡に入国します。(後に栗山氏栗山大膳が引き起こした栗山騒動により領地を没収され筑前国を去ります。)また、黒田氏は国境に6端城を築きます。朝倉地域には麻底良城と松尾城が築かれました。(元和元年1615「一国一城令」により破却)

初代筑前藩主、黒田長政の命により、3男黒田長興に嘉麻郡・下座郡・夜須郡の50000石が分知されました。秋月藩の始まりです。 秋月黒田藩は、様々な物語を生みながら、明治4年の廃藩置県まで、12代およそ250年間続きました。

他にも、江戸時代には数多くの事象や文化が花開いています。三連水車に代表される堀川用水及び山田井関は、灌漑用水として用いられ、多くの圃場を潤し、米の生産を高めました。また、蝋や絞りなどの特産品もこの頃に開発されています。

小石原地区では、窯が開かれ、小石原焼の生産が開始されています。 不平士族の反乱である「秋月の乱」、「筑前竹やり一揆」なども勃発し、地方でありながらも揺れ動く時代に翻弄されている様が見て取れます。

正年間に大刀洗飛行場が設置されると、甘木は軍都として発達します。飛行場は多くの悲劇を残し、終戦とともにその役割を終えます。現在でも多くの基地の跡を見ることができます。
その後、戦後の復興を経て現在に至ります。

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あさくら略年表

あさくらの歴史を年表にまとめました。

時代 西暦 和暦 甘木朝倉の歴史
縄文        
弥生 前期     野田遺跡(柿原)上原遺跡(馬田)栗田遺跡(三輪)栗山遺跡(平塚)荷原出土の銅弋(三奈木)神蔵古墳(小隈)茶臼塚古墳(小田)※国指定史跡 仙道古墳(三輪)鬼の枕古墳(甘木)孤塚古墳(朝倉)※県指定史跡 焼の峠古墳(夜須)※国指定史跡
古墳 このころ     杷木・神籠石(神籠石を山城の一部とする説による)
飛鳥 661 大宝 2年 斎明天皇、百済再興支援の為筑紫に西征し、朝倉橘広庭宮で崩す。
702     観世音寺に上座郡杷伎野の薗地四九町を施入する。
奈良 724 神亀 元年 普門院、創建される。
730 天平 2年 太宰師大友旅人、安野(夜須)宴遊する。
734   6年 大宰府史跡出土の木簡に「夜須郡」の字が見える。
安平 806 大同 元年 大神神(大己貴神社)に神封六二戸を施入する。
855 斎衡 2年 上座郡大領前田臣市成、善政を賞さる。
859 貞観 元年 美奈宜神に従五位上の神階を授ける。
880 元慶 4年 真天良布神に正五位上の神階を授ける。
938 天慶 元年 秋月荘が成立する。
960 天徳 4年 栗田(三輪町)に松峡宮創建。 
986 寛和 2年 栗田荘が安楽寺(太宰府天満宮)に寄進される。
1019 寛仁 3年 刀伊の入寇、大蔵種伐その撃退に活躍する。
1089 寛冶 3年 僧慶源、法華経を栗田を栗田の弘誓寺に埋納する。
このころ     杷木・普門院の木造十一面観音立像(重要文化財)
朝倉・南淋寺の木造薬師如来座像(重要文化財)ができる。
鎌倉 1202 建仁 2年 杷木・旧梅林庵の木造聖観音立像ができる。
1203   3年 秋月種雄、秋月荘を与えられる弘安の役、秋月種家らがこれに従軍する。
1281 弘安 4年 弘安の役、秋月種家らがこれに従軍する
1288 正応 元年 三奈木荘、蒙古合戦の勲功賞として豊後の御家人志賀氏などに配分される。
このころ     杷木・普門院の本堂(重要文化財)が建立される。
1299 正安 元年 甘木山安長寺が再興される。
南北朝 1336 建武 3年 助有法親王、彦山座主となる。(翌年、黒川院造営)
1359 延元 元年 多々良浜の戦、秋月種定、菊池氏とともに足川尊氏と戦い、大宰府で討死する。
  延文 4年 筑後川の戦い、征西将軍宮懐良親王・菊池武光、筑後大保原で少弐頼尚を破る。
  正平 14年 五条頼元、三奈木荘を与えられ、ついに隠退する。
室町 1397 応永 4年 児島正信、小田の開墾を始める。
1421  

28年

朝倉・南淋寺の梵鐘(県指定文化財)が作られる。
1467 応仁 元年 応仁の乱起こる。秋月種朝、大内氏に従って西軍に属す。
1515 永正 11年 秋月氏、上座・下座両軍の大半を支配下におく。
1525 大永 5年 大友氏の軍勢、秋月氏を攻め、甘木に放火する。 
1530 享禄 3年 このころ、大内氏が甘木に城館を築く
1556 弘治 2年 秋月種方、大友氏に反す。大友宗麟、これを討つ。
1567 永禄 10年 秋月氏、大友氏の攻撃を休松の野戦で撃退する。
安土
桃山
1578   6年 秋月種実、岩屋城を攻め、太宰府天満宮を焼く、ついでご神体を栗田の老松宮に移す。
1587  

15年

豊臣秀吉、九州を平定。秋月種実降り、日向の高鍋に移封される。
1592 文禄 元年 文禄の役。筑後・豊後両国の貢米を夜須中牟田村に集める。
江戸 1600 慶長 5年 関ヶ原の戦い。黒田長政、筑前に封ぜられ、叔父直之を秋月に配す。
1602   7年 黒田長政、家臣の知行割を行い、黒田一成に下座郡で一万二千石を与える。
1604   9年 円清寺創建される。
1615 元和 元年 大阪夏の陣。ついで一国一城令が出され、小石原の松尾城などが破却される。
1621   7年 平田孫作、山隈原の開墾を始める。
1623   9年 黒田長政没、三男長與を秋月五万石に分封する。
1632 寛永 9年 栗山大膳、幕府に藩主忠之謀反の企てありと訴える。
1636   13年 秋月藩、本藩と領地の一部を交換する。(御内証替)
1691 元禄 4年 甘木の祇園追山笠が始まる。
1700   13年 光照寺の住職玄哲、「甘木雑記」を著す。 
1704 宝永 元年 秋月藩、藩札を発行する。
1714 正徳 4年 床島の堰が完成、下座郡に湿地がふえる。
1732 享保 17年 各地に大飢饉がおこる。秋月領内の餓死者2000人余。
1736 元文 元年 甘木に大火、民家523、社寺7が焼失する。
1751 宝暦 元年 福岡藩、上座郡に櫨畑村をつくる。
1762   12年 秋月に大火、武家屋敷などが焼失する。
1775 安永 4年 秋月藩、学問所「稽古亭」を創設する。
1789(寛政元)稽古館となす。
1785 天明 5年 儒者亀井南冥、秋月藩に招聘される。
1787   7年 秋月についで甘木に打壊しがおこる。
1790 寛政 2年 秋月藩医緒方春朔、種痘を行う。
1800   12年 原古処、稽古館教授となる。1812年(文化9年)退役。
1810 文化 7年 秋月鏡橋(県指定文化財)が完成する。 
1820 文政 3年 甘木・須賀神社本殿(県指定文化財)が建立される。
1822   5年 須賀神社の社倉(県指定文化財)が建てられる。
1825   8年 長田の湿抜工事が完工する。
1832 天保 3年 土井正就、大倉種周、「秋月藩封内図」を完成する。
1863 文久 3年 生野の変、戸原卯橘自刃する。
明治 1871 明治 4年 廃藩置県。秋月藩、秋月県となり、ついで福岡県に合わせられる。
1873   6年 嘉麻郡に竹槍一揆がおこり、当地方にもおよぶ。
1876   9年 秋月の乱がおこる。
1896  

29年

上座・下座・夜須三郡が合併し朝倉郡ができる。
1908   41年 朝倉軌道、二日市・甘木間の営業を開始する。
大正 1919 大正 8年 太刀洗飛行場が開設される。
昭和 1926 昭和 元年 郡役所が閉庁される。
1953   28年 大豪雨、筑後川が氾濫し、大被害を受ける。
1972   47年 江川ダムが完成する。
1977   52年 寺内ダムが完成する。

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あさくらの物語

大己貴神社と邪馬台国

●日本最古の神社

三輪町弥永の大己貴(おおなむち)神社は、近在では最も格式の高い神社で、土地の古老たちは、日本最古の神社だ、と言い伝えています。土地の古老たちの言い伝えに多少の郷土自慢が含まれているのは確かでしょうが、まるで根拠のない話ではありません。 周辺の人々は昔から、この神社を「おんがさま」と呼んでいますが、それは「おおがみさま」という言葉の訛り。また、大己貴神社は別称を大三輪神社ともいい、一郡の古書には「大神(おおみわ)神社」とも表記されています。大神神社といえば、奈良の三輪山のぷもとにも同名の神社があり、通説ではこの神社こそが日本最古だとされています。しかし、三輸町のほうが、じつはそれよりも古いのではないかというのが、古老たちの主張なのです。

例えば、十世紀初頭に編纂された『延喜式』の「神明帳」には、同し「於保奈牟智」(おおなむち)という祭神を持つ二社のうち、大和地方のそれはすでに大神神社と表記ざれ、筑紫の国のそれは於保奈牟智神社と記されているというのです。漢字が日本に渡未した当初は、宛て字として用いるのが通例。となると、古名のまま日本最古の"神社番付け"に記されている、筑紫の国のそれのほうが古いのではないかというわけです。九州のどこかはともかくとして、この地で発生し、あるいは台頭した勢力が何らかの理由で東へ移り、わが日本の国造りの中心勢力となったのではないかとするのが、いわゆる"大和東遷説"で国造りの神話の解明が進むにつれて、それはほぼ定説となりつつあるようです。そこで東遷を前提として考えてみれば、類似する古き事象や地名などが、九州と大和地方に存在する場合、九州を"本家"とするほうが無理がないのではなかろうか。このような推論もまた、三輪町の古老たちの言い伝えを裏付ける、有力な根拠の一つ。
古老たちは言っています。「いや絶対、おんがさまが本家です。日本最古は三輪町の大己貴神社。今後はいろんな先生たちがさらに研究して、はっきりさせてくれると思います」

●邪馬台国

甘木・朝倉説 中国の史書『魏志倭人伝』に書かれた邪馬台国は、どこにあったか?
いわゆる邪馬台論争は、年を追う毎に過熱して、全国各地でさまざまな人が、それぞれに興味深い仮説を提唱しています。そんな中で、最近あらためて注目を集めているのが、「邪馬台国、甘木・朝倉説」で、これは安本美典文学博士が昭和42年刊行の自著『邪馬台国への道・科学が解いた古代のなぞ』で主張ざれた説に端を発しています。同博士は、『古事記』や『日本書紀』、また他のさまざまな資料を、コンビュータで解析。その結果として(1)卑弥呼と天照大神は同一人物、(2)天照大神の首都高天原は邪馬台国である。(3)『延喜式』による地名を分析すると、その位置は甘木・朝倉となる・・・などと提言され、話題を呼ぴました。
その後、アカデミズムの立場から、あるいは自由な立場から、"甘木・朝倉説"を発展させ、補強する説が次々となざれ、また、それらにともなって、遺物や伝承の再認識も進み、同説は急浮上。いずれにしても、その結論は今後のいっそうの研究を待たねばなりませんが、この説が邪馬台国九州説のうちでも、かなり有望であることはまちがいのないところ。ところで、安本博士の主張の中で、私たちにもわかりやすく、納得させられるのは、筑紫の国と大和地方の地名におどろくほどの類似が見られるという指摘です。
いずれも時計の針を逆に一周して・・・

<九州>
三輪町・朝倉町・鷹取山・星野・浮羽町・杷木町・鳥屋山・山田布・田川市・笠置山,御笠・御井町・小田・池田・夜須町。

<大和>
大三輸町・朝倉・高取山・吉野山。音羽山・榛原町・鳥見山・山田・田原・三笠山・三井・織田・池田・大和

これに先の東遷説と大己貴神社の日本最古説を重ねてみると、いずれにしても、同神社を祭り、中心とした一勢力が大和地方に東遷して、自分たちの故郷であったところにならって、地名を付したということになりそうです。ところが、残念ながら、これも今のところは仮説に過ぎず、結論は今後の研究待ち。ただし、次のようなことだけは、はっきりといえるのではないでしょうか。
大己貴神社の周辺には、巨大な勢力が存在した。甘木・朝倉地方の歴史はきわめて底深く、汲めども尽きぬ魅力を秘めているということ。
「大己貴神社は、全国的に見れば今こあまり有名神社ではありませんが、それでいて、全国から人が訪ねてきます。古代史のロマンの原点の一つだからと、研究のために来る人が多いのです……」
「おんがざま」をこよなく愛す、土地の、ある古老の言葉です。

古墳に埋もれた話の発掘

●装飾古墳の鎖をめぐって

装飾古墳は、竪穴もしくは横穴式の石室内部に、彩色された文様や絵画が描かれた墳墓で、五世紀から六世紀にかけて造られたものではないかと推測されています。装飾古墳の中には、舟、あるいは馬などが描かれたものがあり、そのような事実から、朝鮮半島、それも北の方から渡来した人々が造ったのではないか、鉄器をわが国にもたらしたのは彼らではなかったかとさまざまな論護がなされていますが、興味深いのは、装飾古墳のほとんどが、熊本県の菊池川流域もしくは筑後川流域などの北部九州に集中しているということ。

さらに不思議なことには、筑後川流域には確かに装飾古墳が多いのですが、なぜか左岸、すなわち耳納連山側に限られていて、右岸、甘木・朝倉地方ではほとんど見られず、長い間、大きな謎のひとつとして注目を集めてきました。というのも、筑豊や北九州地域では早くから幾つかの装飾古墳が発見ざれていて、”装飾古墳の連鎖”が、甘木・朝倉地方で断ち切られてしまっていると考えられていたからです。だが、やがて、朝倉町の宮地獄古墳や三輪町の仙道古墳、夜須町の観音塚古墳が装飾古墳であることが広く知られるようになり、装節古墳の連鎖をめぐる論議は一応の終止符を打つことになりました。
しかし、いずれにしても、甘木・朝倉地方に装飾古墳が少ないことは事実です。そこで、裏返えしに推論されるのは、装飾古墳が造られた当時、甘木・朝倉地方にはそれらの勢力を全く寄せつけないほどの、強力な勢力が存在していたのではなかったかということです。甘木・朝倉地方の朝もやは濃く深く、時に風景を墨絵のように変えてしまうほど。古代史のロマンを追う人の多くは、その朝もやと古代史の幾つかの謎を重複させて、甘木・朝倉地方の当時の歴史はまだ、もやの中、だからこそ魅力があるのだと語っています。

●王国発見!

1985年の年の幕れ、夜須町の峰遺跡のかめ棺から「壁」が発見ざれ、大きな話題になりました。ガラスの壁は、今からほぼ2000年ほど前には、鏡や剣と併せて三種の神器とされ、王権の象徴とされていたものです。すなわち、壁が発見されたということは、そこに埋葬されていた人物が「王」か、もしくはそれに近い権威を持つ人物であり、そのことはとりもなわさず、周辺に王国が存在していたことを意味しています。
宝満川の周辺、すなわち夜須町や三輪町一帯は、古くからの農耕適地で、農耕の先進地域の一つではなかったかと類推され、より早くから王国が存在したのではないかといわれていて、それが壁の発見によって裏付けられたというわけです。峰遺跡で発見された壁の中には、糸島郡前原町の三雲遺跡や春日市の須玖岡本遺跡からしか出ていないという、貴重な壁も混じっています。

これらの遺跡は、すでに、かなりの規模の王国の存在を示すものだとするのが定説となっていますから、峰遺跡もまた、かなりの王国の存在の可能性を示すものだといえそうです。 言い伝え、神話、あるいは先に紹介した「邪馬台国説」そして、日本一古いともいわれる神社の存在、ざらに、この峰遺跡での壁の発見という事実を重ねてみると、自ずと同地一帯の輪郭が浮かんできます。この地に存在したのが邪馬台国であったかどうかはともかくとして、周辺にはまだ幾つかの王国が存在したのではなかったか。それらが連合王国として、かなりの勢力を有していたのかもしれない。学間的な結論は、まだこれからの研究を待たなければなりませんが、峰遺跡での壁の発見によって、可能性が大きくふくらんだことは確かです。
朝倉平野の朝もやは、そのふところに、壮大な歴史のロマンを秘めて、優しく、豊かな大地をおおっています。

女帝と皇子の行宮

●悲恋物語と橘の広庭

能楽に『綾鼓』という官廷を舞台にした悲恋物語があり、三島由紀夫はその幽玄な悲劇に魅了されて、 自身の代表作ともいえる戯曲を書き残しています。

『綾鼓』の物語そのものは能楽の例にもれずきわめて簡略なもので、 歴史的な背景などはほとんど盛り込まれていませんが、その名作が底知れぬ奥深さを感じさせるのは、 作者が当時の歴史的な背景を強く意識しつつ物語を着想したからではなかったかといわれています。

つまり、こうです。物語の舞台である官廷というのは、筑紫の国の行宮、朝倉の橘の広庭のことで、 ここが設けられたというのも、朝鮮半島との関係がきわめて緊迫していたから……。 660年、女帝である斉明天皇は、朝鮮半島で新羅に圧迫される同盟国百済の要請に応じて、出兵を決意され、 自身が自から中大兄皇子とともに西下されることになった。
最初は、福両の三宅に行宮を設けられたが、緊迫の度が高まったのをうけて、現在の朝倉町に行官を移された。

それがすなわち、橘の広庭と呼ばれる仮宮殿であり、朝倉に移られて直後に天皇は亡くなられてしまった。 斉明天皇の死後、中大兄皇子はぷたたぴ本営を三宅に移され32000余人の兵力を朝鮮半島におくり、 自村江で新羅の後盾、唐水軍と大海戦をまじえたが、大敗を喫してしまった。
すなわち、朝倉の橘の広庭は、女帝のための官廷とはいいながら、あくまでも仮の宮殿で、 しかも、それは戦いのための本営といった意味合いの強いものでした。宮廷の中には、優雅さの中にも、 一種の緊迫感が常に満ちていたものと思われます。 それを意識しつつ、『綾鼓』の作者は、あえて、ここを悲恋物語の舞台としたのではなかったでしょうか。

●木丸殿と皇子の歌

ちなみに、『綾鼓』のあらすじは、こんなぐあいです。

季節は秋。筑前国、橘の広庭で雑用をしている老人が美しい女官を見かけ深い恋に落ちた。 女官は老人を哀れにも思い、いをたちきらせるために、綾の鼓を臣下に作らせそれを打って音が出たなら姿を見せようと約束する。
絹張りの鼓が音を出すはずもないが、恋に落ちた老人は、必死になって音の出ない綾の鼓を打ち続けた。 そして、失望のあげく、老人は池に身を投じて命を絶ってしまった。

橘の広庭があったのは、朝倉町の須川のあたりではないかとされています。 いま一帯は豊かな田園で、秋になると黄金色の海の上を、さわやかな風が吹き渡っています。 音が出るはずもない綾鼓を打ち続けたという老人の姿と、白村江の敗戦、女帝の崩御。 朝倉の野を渡る風に耳を傾けると、雅ぴで、もの悲しく、しかも壮大な叙事詩が聴こえてきます。

『秋の田の かりほの庵の苦をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ』

中大兄皇子、のちの天智天皇がこの地で作られたという一首です。
また、中大兄皇子は、次のような歌も残ざれています。

『朝倉や 木の丸殿にわがをれば 名のりをしつつ 行くはたが子ぞ』

当時、名を告げるのは求愛の意。
自分に求愛して通るのは、どういう身分の娘かという意味です。
木丸殿は中大兄皇子が母帝の喪に服するために建てたという丸木造りの官。一方で朝鮮半島への出兵を期し、母の死をいたみ、 その一方で、こんな歌を残した皇子の心境はいかなるものであったか。 その歌がさりげなくあればあるほど、深い心痛が伝わってくるようにも思われます。
朝倉町の恵蘇八幡の一画に木丸殿はあったといわれています。
いま、その森は、ただひっそりと静まりかえっています。

熊鷲、そして、万葉の歌

●夜須の地名伝説

神功皇后が西下ざれ、新羅を討たんとされている当時、朝倉地方には、羽白熊鷲という強力な首長がいて、 朝廷の命にも従おうとしなかった。そこで筑紫の国に入られた神功皇后はまず、これを討たんと決意され、 策を立てて夜須町安野原におぴきよせられた。
羽白熊鷲は強健で、身体には翼があり、よく飛ぴ高く翔けることができたから、神功皇后も、なかなかこれを討つことができなかった。そして神功皇后はこの強者を倒したのち、 その安堵感から周囲の者に「熊鷲を取り得て、我が心即ち安し」ともらされた。

以上『日本書紀』に記された神功皇后の伝説のうちの夜須町に関わる部分の概略ですが、 同町の名は、その「安」に由来するのだとされています。 神功皇后は伝説上の人物だというのが歴史学の定説です。
しかし、伝説や神話が朝廷方に都合よく書かれているのは確かだとしても、それらが、何らかの歴史の事実を踏まえて書かれたものだとするのもまた、最近の歴史学の定説。

そこで、神功皇后については、おおむね、次のような推論がなされています。
神功皇后とは、複数の人物の行跡が合成された結果、創られた架空の、しかも象徴的な人物。 伝説の中に散りばめられた事跡は、何らかの理由で時代がずらされている。・・が、神功皇后のすなわち朝廷方の敵もしくは味方にも実在のモデルが存在し、敵となった人々は熊襲とか土ぐもとか熊鷲とか、恐ろしげな名前で呼ばれることになってしまった。 熊鷲は、朝廷方にとって、かなり難敵だったに違いありません。
甘木・朝倉地方で、大いなる勢力を持つ首長だった。
「・・・安し」という言葉に、その難敵ぷりが込められているようです。
いずれにしても、古代のいつしかある侍、安野原が、歴史を左右しかねない激戦地となったことは 確かな事実だといえるでしょう。 そして、時は巡り・・・。

●大伴旅人と安野原

聖武天皇が即位され、神亀と改元された720年、大宰帥、すなわち大宰府の景高長官とて大伴旅人が赴任します。 大宰府は当時はすでに九国三島=九州全域を統治する官庁だとされ、また、半島や大陸との外交の窓口でもあったわけですから、大伴旅人は官吏としてもかなりの高官だったということになります。 しかし、私たちにとっての大伴旅人は、万葉集を代表する歌人の一人。 その旅人が、万葉集の中に次のような歌を残しています。

『君がため 醸みし待酒安の野に 独りや飲まむ 友なしにして』

大伴旅人は、下僚であり友でもあった人物と、送別の宴を安野原で催すつもりだった。 ところが、その友は急に出発することになり一人酒を飲むことになってしまったというのです。
当時、安野原は、大宰府の官人たちの、くつろぎの地になっていたものだと思われます。 はるかな広がりを持ち、景視はたおやかで、万葉を代表する歌人の詩情をそそるほどに、魅力的な地であったからでしょう。少なくとも、旅人は、最も親しい友と酒を汲みかわし、別れを告げるのにぷさわしい地として、ここを選んでいる。

激戦地だったこともある、安野原。 歌人の情感に、そよそよと優しく応えた、安野原。 旅人が、その昔、この地が激戦の地であったことを知っていたか、どうか・・・。

ちなみに、『日本書紀』が完成したのは、旅人が大宰府に赴任したのと同じ年、720年のことだとされています。

秋月城下町物語
●秋月氏から黒田氏へ

古処山の山ふところに抱かれて、ひっそりと、歴史の眠りの中にたたずむ、 小さな城下町。秋月は、町がそっくりそのまま、タイムカプセル。
秋月氏400年、黒田氏250年の栄華を秘めて、まどろんでいます。

秋月の名前は古く、すでに平安時代の中期に「秋月荘」として、史書に顔をのぞかせています。そして、鎌倉時代。原田種雄が古処山に城をかまえ、秋月氏を名のり、この地は一帯の政治の中心地となって、文化が芽生え、秋月は城下町としての歴史を刻むことになります。

秋月氏は漢の高祖の未寄と称する渡来人の阿多倍(あたえ)王の血をひく名族で、平安中期には、藤原純友の乱の鎮圧に功績を残し、西国平氏を支える有力な一族だったと伝えられています。種雄治政以降、秋月氏は西国一帯、とくに筑前において威勢をふるい、西国の覇者として君臨します。この秋月氏の隆盛は約400年間にもわたり、いま筑紫の小京都とたたえられる秋月城下町の文化の伝統の礎は、この間に築かれ、発展します。

そして、秋月氏十六代種実の治政下、城下町は、暗転の時を迎えます。平安の夢を破ったのは、天下を統一しつつあった豊臣秀吉で、秀吉はきわめて強引に種実に降伏を迫っています。種実の重臣、恵利悌寛は、秀吉の軍の強大さを知り、主君に降服をすすめたのですが、種実はこの忠言を聞き入れず、島津氏と結んで反旗をひるがえしたのです。種実の怒りに触れた、暢尭は切腹。暢莞が切腹したという大岩がいまも秋月の山裾に残り、秋月氏暗転のドラマを伝えています。

秋月氏は、秀吉の軍に敗北。日向の高鍋藩に移封ざれ、この地にただその名のみを残して、城下町の歴史から退場。 秋月城下町は、第二幕ともいうべき、黒田氏の時代を迎えることになるのです。 秋月氏の時代、古処山城と呼ばれた城の新しい主となったのは、徳川期・福岡藩主となった黒田長政。

やがてその城は、長政の叔父黒田直之によって下方に移され、秋月城と呼ばれることになりますがこれも日浅くして、幕府が定めた一国一城制のあおりで、とり壊されてしまいます。そして、長政の没後、1623年、この城跡に、小ぷりでありながら格調に富む居館が築かれます。五万石の分与をうけた、長政の三男黒田長興が建てたもので、いま私たちが秋月城跡と呼んでいるのは、この居館の名残りです。

●山ふところの文化の香華

黒田氏が為政者となった秋月城下町は連綿として約250年、明治の廃藩置県に至るまで続いて、ここは、山ふところの城下町に独自の文化が生まれ、人々は再ぴ、太平の世を謳歌します。この時代、この小さな城下町からは、数多くの才人が輩出し、藩政の充実ぷりを間わず語りに、語っています。
例えば、江戸期を代表する儒学者の一人、原古処がいます。
古処は、詩人としても高名を残しています。そして、女流詩人として名高い釆蘋(さいひん)は、その娘。 また、最近になって、世界で初めて、ジェンナーよりも古く種痘を成功させた人物として、あらためて取沙汰されている緒方春朔も、秋月の人。

秋月藩は、高名な儒学者、亀井南冥を招いたことでも知られています。 当時、本邦随一の学者が、山ふところの小さな城下町にやってきたというのですから、世問は驚き、あらためて秋月の文化のレベルの高ざに注目したと伝えられています。

いま、秋月の町をそぞろ歩けば、そこかしこで、往時をしのばせる、数多くの「名残り」と出会います。 黒門と一般に呼ばれている大手門は、現在は旧藩主をまつる垂裕神社の神門になっていますが、元は、戦国時代の古処山城搦手門だったといい秋月城下町の歴史の奥行きをしのばせます。いま長屋門として知られるのは、江戸期の居館の勝手門。杉の馬場通りは、その名のとおり、往時、武士たちが馬術を磨いた場所。

さらに、秋月郷土館の看板を掲げる建物は、旧武家屋敷とその蔵を利用したもの。館内には鎧、陣羽織に混じって、一幅のぴょうぷ絵なども展示され、秋月城下町の香華をいまに伝えています。 ぴょうぷ絵は島原の乱における秋月藩の奮戦ぷりを描いたもので、藩のおかかえ絵師、斎藤秋圃の筆。 美術的にも歴史資料としても、きわめて価値の高いものとして、全国にも広く知られています。

長崎から石工を招き、清らかな急流に、目鏡橋を築かせた……秋月。 幕末には"秋月千軒"ともうたわれ、隆盛を誇った、この城下町に、風をもたらしのは、明治維新……。 続いて、明治四年の廃藩置県制によって、秋月は城下町としての歴史を終えることになるのですが、250年の歴史が残したほだ火は歴史の流れに抗して、今一度激しく燃え上がり、世間の耳目を集めます。世にいう、秋月の乱がそれで、激戦ひと月。1876年、明治9年のことでした。秋月の乱は、士族の反乱。しかし、それは同時に、城下町の歴史の終えんを意味するものでもありました。

それから百余年、秋月はいま、とろとろと陽ざしの中でまどろみ、訪れた人々を、そののどかさゆえに魅了しています。
英彦山への道
●大根川を越えて

時代によって、多少のルートの違いがあり、また杷木方面から、廿木方面からといったぐあいに、幾つもの経路があったらしいのですが小石原を経て英彦山へ至る道を、昔の人たちは「英彦山道」と呼んでいました。英彦山へ続く道だから「英彦山道」、簡単にいえばそういうことなのですが、じつはその呼ぴ名には、ちょっぴり人間臭い、暖かい想いが込められているようです。

それというのも、英彦山道とは、もっぱら庶民が英彦山神社に参りするための道。そのために自然にできあがった道だったからです。江戸期、庶民に旅の自由はほとんどなかった。物見遊山、今でいうレジャー旅行などはもってのほか。例外として、信仰の旅だけが許されていた。伊勢参り、金比羅参りなどがそれである。そこで、自然にそれらは、実質的にはレジャーの旅ともなり、庶民にとっては、最高の楽しみの一つでもあった。英彦山参りは本来は五殻豊穣を願って行なわれ、農耕とのかかわりを強くもつ習慣ではあったのですが、やはり一面では"楽しい旅"でもあったようです。

英彦山へは、肥後や肥前からも参拝の人が集まり、もちろん筑後平野の各所からも多くの人が英彦山への道をたどったといわれています。甘木の街に、今も、肥前屋などといった屋号を残す宿がありますが、それらは、英彦山への道をたどる人のうち、もっぼら肥前の人々が投宿したのでその名があるともいわれています。また、甘木の南の佐田川は別名、大根川とも呼ばれていますが、この川についてはおもしろいエビソードが残っています。佐田川が大根川と呼ばれるのは、大根の収穫の時期、水量が減って川の流れが伏流水となり、川面の流れが消えてしまうせいですが、ちょうどその時期は、英彦山参りの季節でもあって旅人は労せずして川を渡ることができたというのです。

土地の人が、ちょうどこの辺が枯れるのだという場所の向こう岸には、昔、道者道といわれたという道も残っています。道者とは、英彦山へ詣る人のこと。土地の古老は言っています。
「道者さんたちは英彦山からの帰りに、私たちにも小銭をくれるのが慣習でした。だから、道者さんの通る季節は、とても華やいだ気分でした」

●坂下と黒川院

寺内ダムの西に、坂下という、文字通り坂の下の小さな集落があり、昔、ここの14~5軒の家のほとんどは、旅館だったといわれています。この集落を抜けると道は、急坂となり、それは山を越えて、黒川呑吉という集落に通じています。ここは、かなりの難所だったので、多くの人が坂下で宿をとり、難所越えに備えたものだと思われます。 戦前までは、にぎやかだった、と、坂下の古老の言葉です。

黒川呑吉から、英彦山をたどる道からは、ちょっとはずれるのですが、黒川には、黒川院と呼ばれる英彦山座主の館があったことが知られています。英彦山皇系初代座主、助有親王の御座所だったところです。 今から、ほぼ650年ほど前のことで、建物などは残っていませんが、石垣や木影の小径などに、その面影がしのばれます。ちなみに、肥前からにしろ筑後平野からの各所にしろ、英彦山へ至る人々のほとんどは、甘木・朝倉地方のいずれかを経由しているというのは先にも述べたとおりです。

そこで、甘木・朝倉地方でも昔から英彦山参りは盛んに行なわれ、人々はその費用を調達するために、代参講を立てたといいます。つまり、講金を積み立てては、毎年代表者を数名だけ英彦山に送ったのです。そうやって送られた英彦山参りの人々の喜ぶさまが浮かんできます。黒川から小石原へ至る峠は、車で越えてもかなりの難所。それを徒歩で…。
甘木から英彦山まではほぼ十里、40キロ。甘木からの人々は小石原で一泊することもあったといいますが、ほとんどの人が一日で英彦山へたどりついたといわれています。
健脚のエネルギーは、「旅のよろこぴ」だった。英彦山道という言葉には、どこか楽しげな響きも感じられるのです。
皿山と宝珠石のある村
●古くから広く知られて

民陶として全国に名高い小石原焼の、発端は、英彦山神社ゆかりの窯に始まると伝えられています。
土地の農民たちが、野良仕事の合間に焼いていたというのですが、小石原一帯が英彦山神社の神領の一部だったこともあり、また、小石原が英彦山へ通しる主要参道一部だったこともあって、当地の焼物は古くから、広く、人々に用いられていたものと思われます。

広範に愛された小石原焼に転機が訪れたのは、室町後期。
英彦山を中心とする勢カが豊後の大友勢と戦って敗れ、小石原一帯もざぴれて、小石原の窯は近くの村民の需要だけに頼って、細々と息を長らえます。そして、江戸時代。黒田三代藩主光之が伊万里の陶工を招き、小石原に窯を築かせたことから、この地に新たな歴史が刻まれてゆくことになります。これを契機として、朝鮮系の新技術が取り入れられ無彩陶器だけだった小石原焼にも釉薬が施されるようになったのです。

また、同じ頃、小石原に移された高取焼との交流も生まれ、小石原焼は一段と品質を高め、一方で昔からの素朴さを失なうこともなく、連綿と続いて、戦後の民芸プームの中で黄金時代を迎えます。
民芸運動の推進者の一人、バーナード・リーチの絶賛。プリュッセルでの世界工芸展グランプリ受賞。 通産大臣による「伝統工芸品」指定などを経て、小石原焼の声価が不動のものとなったことは比較的最近のことでもあり、よく知られるところです。

ところで、小石原の歴史で興味深いのは、先にも述べたとおり、ここが神領の一部でもあり、いわゆる英彦山道の一宿だったという事実です。土地の故老の言い伝えでは、明治の初め頃までは、この狭い盆地に宿が30軒もあったといい、三階建ての、山あいとは思えぬほどの立派な宿も幾軒かあったというのです。旅人1000人を収容できたというのですから、江戸期としては最大級の宿場だったといってもいいすぎではありません。この宿場に宿をとり、あるいは一服した英彦山参りの人々は、小石原焼を土産として買い込んだに違いありません。この道を通り英彦山を詣でた人々の中には、遠く肥前や肥後の人も多かったといわれていますから、自然、小石原焼は、その地の人々にもよく知られていたのではないかと思われます。

いま、小石原の声望が高いのは、バーナード・リーチによるものだとするのが通説ですが、じつは、すでにそれより以前に、このような事情が存在していたという事実もまた見逃せません。 小石原皿山の近くに、行者杉と呼ばれる天を突く杉木立があり、 それらは、行者たちが差し木をし、長い年月の間に、巨大に成長したもの。 皿山と行者杉。英彦山と小石原。世界的に著名な民陶の里の意外に知られていない歴史のーコマです。
ちなみに小石原の春と秋の民陶祭の始まりは、山伏の神事というのが、発足以来の伝統となっています。

●誰も見ぬ石

小石原のとなり、宝珠山村は、福岡ではすでに数えるほどでしかない村のひとつ。 それだけに、他の土地では見られない、ひなぴた味わいを随所に残し、村名の由来もまたなんとも大らかで、牧歌的なものです。

宝珠山村の一画に、岩屋山という急峨な山があり、ここには巨大な奇岩が幾つもそぴえ立っています。 そのうちの最大の岩の高さは、なんと54メートル。一方、この岩屋山には、岩屋神社という由緒ある神社があり、その社殿の奥深くに、宝珠石と呼ばれる不思議な石が祭られています。宝珠にも似た美しい形のそれは、隕石だとも語り継がれているそうですが、真偽のほどは定かではありません。
うるう年の10月19日の真夜中、神官と神社総代が目隠しをして、被せてある菰を七枚はぐり、新たに十枚被せる・・、というめずらしい神事も、いかにも、この素朴な村ではのもの。いずれにしても、この村の人々は昔から岩屋山に畏敬の念をはらい、宝珠石をそのシンボルとして敬い、その名を村名ともしてしまったというわけ。

岩屋山は、古くは、英彦山系をめぐる山伏の修行場の一つだったと伝えられています。 山伏の信仰が厚く、石にかかわる神事もまた秘密めかしくなってしまったのでしょう。 何しろ、真夜中に目隠しをして、「絶対に見てはいけない」というのですから……。 岩屋神社の縁起をひもとくと、その開基は古く継体天皇の御世だといい、英彦山を開いた魏の善正上人が、ここも開いたのだと書かれています。継体天皇といえば六世紀前半の天皇。しかも、宝珠山村には、岩屋山が開かれたのは英彦山よりも前だったとする言い伝えも残っています。

天台宗の盛んなる往時、岩屋山には壮大なる七堂伽藍が備わり、末社も十三社を数え、旧上座、下座、夜須の三郡の人々を檀那としていたといいますから、甘木・朝倉のほとんどが、この神社の信仰圏に含まれていたことになります。しかし、その社殿も、大友氏との争乱で、戦火にみまわれ、今は昔。現在残る社殿等は筑前黒田藩主綱政公によるもので、盛時と比べれば、数十分の一程度の規模でしかありません。
とはいえ、以上のような、なんとも厚味のある歴史を胸に、岩屋山を歩けば、不思議な感慨にとらわれます。 ここは、観光地として広く知られているわけでもないのに、ぽつりぽつりと年中訪れる人が絶えないというのも、 その言うに言われぬ、歴史がかもす独特の雰囲気のせいであろうと思われます。 すでに閉山となった宝珠山炭鉱の起源は、江戸後期。 こんな話も併せて、ある古老が教えてくれます。

「宝珠山村を歩いてごらん。飛ぴきりの歴史が、山のあちこちで隠れんぼをしとるごたるよ」
古刹のある風景
●彼の国より来りて

朝倉郡杷木町志波の名刹円清寺は、曹洞宗のお寺、山号は竜光山と称し、慶長九年、1604年、黒田孝高(長政の父如水軒)の老臣、栗山利安(大膳の父)がこの主人のために建立したと伝えられています。
実際には、大同4年、809年、筑後国本郷城主であった三原時勝の草創で、本尊聖観音を安置していましたが、やがて洪水で境内崩壊し廃寺になってしまったのです。栗山利安は、その観音をそのまま本尊としておさめ、寺の名もこの時以来、円清寺と名付けられたと伝えられています。

さて、その円清寺の山門をくぐるとまず目に入るのが鐘楼、大正元年に国宝の指定を受けた「朝鮮鐘」があります。
日本に伝わる朝鮮鐘として最古のもので、年代は新羅末期または高麗初期とされ、つり輪の彫刻が美しく天女のレリーフも優美にほどこされています。この鐘は黒田長政の寄進といわれていますが、『筑前国続風土記拾遺』や『円清寺略縁起』によると、慶長5年、1600年に黒田孝高が、豊後国豆田城を攻めた時、同国日田郡渡村の長福寺から持ち帰り寄進したものとあります。

遠く異国の地より運ばれ、現在の地を安住の地とする朝鮮鐘。 鐘楼の中にさりげなく置かれた鐘は、その美しい姿とともに哀調を帯ぴた音色で、今も変らず人々に愛され、毎年NHKのゆく年くる年で、除夜の鐘として紹介され、人々の煩脳を鎮めています。
なお、この寺には孝高・長政公をはじめ栗山父子の画像、八代目円清寺夜雨禅師の書や草稿など貴重な文化財が所蔵されています。歴史的に有名な黒田騒動の史実を知るよすがともなっています。

●仏の慈顔に包まれて

杷木町のもう一つの名刹普門院は、真言宗のお寺、山門をぬけるあたりのひそやかなたたずまいは心が洗われるようです。この寺の歴史を物語るのは樹令1000年の白檀の古木、かぐわしい木の下にたたずめば、一気に歴史がもどるかのようです。

普門院は聖武天皇の勅願道場として神亀元年、およそ1250年前、行基僧正による開山といわれ、応仁の兵乱の災禍をまぬがれ、今日まで天平仏の慈顔をとどめています。 本尊十一面親世音と、それを祭る本堂とは重要文化財に指定ざれ、ほの暗い堂の奥に安置されています。 人々の祈りの姿が仏の慈顔に重なります。

朝倉町の真言宗医王山南淋寺の門は、ごく最近まで「八坂ん門はいらん門」といわれながら朝倉町八坂の村の真中に建っていました。今は寺のすぐ下に移されていますが、柱の根元は朽ち果て、永い歴史を物語るかのように静かに建っています。
門をくぐり、せまく急な石段を登ると右に鐘楼、正面に本堂、その左に薬師堂があります。 春、木々の白い花が香る頃になるとお遍路さんのお参りがはじまります。
夏の蝉時雨と滝の音、秋のもみじと季節は巡り、大銀杏の葉が散る頃にはお参りの人々も途絶えてきます。 霜の朝には、落葉たく煙がいつまでも消えずに漂っています。

●静けさと祈りの日々

甘木市の甘木山安長寺は、その昔甘木遠江守安長が建てた寺といわれ、八日の市の立つ日に多くの人々が集まります。小雪の舞うような寒い1月14・15日に行なわれる初市はバタバタ市と呼ばれ、山門に大きなバタバタ(素朴で可愛い紙太鼓)が据えられます。
境内は線香の匂いに包まれ、地蔵尊に願いをたくす人々で埋まる、何とも庶民的であたたかみのあるお寺です。この他にも、甘木、朝倉地方には数多くの名刹がありますが、どこも変らぬ静けさと祈りの日々に包まれ、仏法の里と呼ぷにふさわしいおだやかな雰囲気を留めています。

●南淋寺こぼれ話

南淋寺のはるか昔をたどってみると、そもそも最初は、天台宗の寺だったといわれています。 やがて、それが、相続問題のもつれから曹洞禅宗に転じ、さらに近世を迎えて、真言宗に転じた。
その禅宗から真言宗への転換については、次のようなエピソードが語り継がれています。

17世紀の半ば、ある年、福岡の東光院に藩主忠之公が参詣。 その時、その飼猫がたまたま御前に顔を出し、家臣にカツオ節をもらったが、猫はそれを食べようとしなかった。
忠之公は、当時の住職が戒律をよく守り、カツオ節を食しないので猫も手を出さぬのであろうと感心され、自身が信仰する真言宗とするよう命を出されて、その後、手厚く保護を加えられた。 当時、南淋寺は東光院と同じく最澄の刻んだ仏像を本尊とする寺だった。

そこで、東光院にならおうとしたが禅宗の僧侶から異議が出たため、糸島地方志摩郡岐志に南淋寺と号する禅寺を立て、そこを替え寺として、南淋寺は真言宗の寺となった。

古刹、名寺は、そのふところに思わぬ歴史を秘めています。 南淋寺のこの話はほんの一例、甘木・朝倉地方の古刹は、物生りの良い土地、すなわち豊かな土地柄で育まれた寺ということもあって、それぞれの寺がなんともおおどかな話をふところに抱いています。
豊穣への挑戦
●新田と湿田

正徳二年、1712年といいますから、江戸時代のほぼ半ば頃、筑後川に一つの大きな石堰が築かれています。
床島堰と呼ばれるそれは、黒田藩のとなりの久留米藩が築いたもので、その結果、同藩は1500余町の田を開くことに成功しています。ところが、この井堰は、福岡領下下座(蜷城地区)一帯の人々にとっては全くの困り物。その井堰によって田の排水が妨げられ、長田村など21ヶ村、400町以上もの湿田が発生することになってしまったのです。

そのために、福岡黒田藩と久留米藩が激しく対立。福岡側の抗議をうけて、久留米側では番屋を置き、鉄砲数丁を常に用意していたというほどです。
松岡九兵衛は、そんな析に選任された長田村の庄屋。
九兵衛はただ対立する人々とは全く異る発想で、この問題に取り組みます。 相手方はすでに田を開いている。その結果、藩こそ違え自分たちと同じ農民が助かっている。 だからまず井堰の存在は認め、新たに自分たちの側の田の湿抜き工事をすればいいではないかと九兵衛は考えたのです。

九兵衛は菱野村の庄屋大内弥平と協力、村人たちの賛同を求め、行動を開始します。 湿抜き工事実現のための条件を整え、工事の実施を藩に訴え、結局、藩はそれを許すことになったのです。
九兵衛の熱意に動かされた藩は、意地を捨て、久留米藩領内の工事費用の一部をも支出することを決定したといいますから、大変な快挙というべきでしょう。じつは、九兵衛は藩に願い出る前に、久留米側の庄屋の幾人かとも親交を結んでいます。彼らは彼らで、藩政府を動かしたことはいうまでもありません。

●豊かな風景

いわば民問外交が効を奏したかっこうで決まった湿抜工事は、文政8年、1825年2月に始まり、10月に完成。
村人総出で、新たに幾筋かの川を堀り、排水を良くしようというわけですが、難問も続出。 その最大のものは、佐田川や既存の用水とほぼ直角に交差することになる新たな川の流れを、どうやって川の向こうに導くかということでした。現在、甘木市蜷城の一帯で長田湿抜溝、暗渠などの名で知られる構造物が、九兵衛たちの思案の結果の解決策、石で樋を作り、既存の川の下をくぐらせてしまったのです。

ところで、広く知られている朝倉の三連水車・二連水車は、恵蘇宿の山田井堰から流れて来る堀川用水にかかっているのですが、段差のある右岸の千田に揚水するのには、随分工夫や苦心があったようで、寛文3年(1663)の井堰の築造から140年ほどたった文化の頃からまわり始めました。 以来約200年まわり続けて、朝倉平野を代表する夏の風物誌になっています。

ともあれ、この著名な水車たちも、また先に紹介した長田の湿抜溝も、朝含平野の先人たちのたゆまぬ努力のほん一例に過ぎません。いま、朝倉地方は、全国的にも最も肥沃な地の一つとされています。
田や畑の生産性も高く、また河岸段丘や山の斜面の果実も豊富で、朝倉地方を訪れる人の多くが口にする「ここへ来ると、なぜだかほっとする」という言葉も、背景にそんな豊かな風景があるからだと思われます。
風景が一面で歴史の集積であるとすれば、甘木・朝倉の歴史もまた、きわめて滋味に富む"豊かな歴史"なのだということを、この地の風景は裏付けているかのようです。

長田湿抜を説明する『甘木市史』の一節は、次のような言葉で終わっています。
「…湿抜工事は、その後も九兵衛の子九平、その子九一郎と、松岡家三代の手によって、明治に至るまで受け継がれていった」と。